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24820日。

人生は無限のように続いていくと思ってしまいがちだけど、
人生は”有限”

(精神的な事や神秘的な事もあるかもしれないが、間違いなく物理的には有限

世界の平均寿命が68歳=24820日。
それが人間の人生で与えられたギフトの時間

今、僕は何日目だろう
あなたは何日目だろう

これからの人生、日々、1日1日をもっと大切に噛み締めて生きていきたい

僕は人生で2度、死にかけたことがある
(それはそれは助からない可能性の方が高い本当の死にかけだ。)
「あの時に人生が終わっていた」と考えれば、
今の時間がボーナスタイムのようなギフトにすら感じる
だからこそ、
そのエクストラタイムで今度は”還元”していきたい
それが僕の今の想いのベースにあるのは確か。

フィルムスタとして、色々な形で貢献していきたいんだ。
それだけ

フィルムスタに関しては
以前にブログでご紹介させていただきましたので
是非こちらも併せてお読みいただければと思います
ココをクリック!
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【カンパニーを法人化して「演劇だけで食えるようにする」にはどれだけ稼いで動員すればいいのか、具体的にシミュレーションしてみた】

参考になりそうな記事を読んだので共有しますね

参照:荻野達也さん:2015年6月22日の投稿

「演劇だけで食えるようにする」には、どれだけ稼げばいいのか
次のような小劇場系カンパニーで計算してみたい。
(あくまで机上でのシミュレーションで、消費税は考慮していない。)

①法人化している
②役員・社員は8名(主宰1名、俳優5名、制作者2名)
③稽古場を兼ねた事務所を賃借


支出の部

俳優を雇用/所属どちらにするかは大きなポイントだが、ここでは年間を通して食えること、福利厚生もきちんと提供することを目指したいので、雇用して給与を支払うことにする。
俳優のマネジメントも行なうため、制作者は最低2名必要だろう。

これを踏まえた年間の人件費だが、
国税庁「平成25年分民間給与実態統計調査」によると、2013年の30代前半の平均年収は384万円なので、この金額で試算したい。
非課税の通勤手当は含まれていないので、平均で往復1,000円、月20日勤務で2万円とする。福利厚生費(法定福利費+法定外福利費)は、「人事解決.com」の内訳で計算すると、年間54万円になる。法定福利費は社会保険の会社負担分、法定外福利費は健康診断や慶弔見舞の費用だ。退職金制度は設けない。

年間の総額人件費は次のとおり。
(384万円+(2万円×12か月)+54万円)×8名=3,696万円

人件費以外の販売費及び一般管理費(販管費)では、事務所の賃借料と水道光熱費で月額30万円とする。
東京で物件を検索したところ、これだけあれば駅から徒歩圏内で稽古場併設の事務所を維持出来るようだ。
その他、日常業務に不可欠な費用を月額20万円とする。複数の企画を平行して走らせ、俳優のマネジメントもしようとすると、これぐらいは必要だろう。

年間の販管費(総額人件費除く)は次のとおり。
(30万円+20万円)×12か月=600万円
売上原価に相当する費用は公演予算で相殺されるので、収入の部で考えたい。

人件費を含む販管費の合計は次のとおり。
3.696万円+600万円=4,296万円


収入の部

カンパニーの収入としては、次のものが考えられる。


①公演収入
②物販収入
③外部活動収入・戯曲の上演料
④制作業務の受託
⑤稽古場賃貸収入
⑥演劇講座・ワークショップ収入


助成金を前提に予算を組むことは出来ないので、助成金は含めない。
③~④は主宰・俳優を含めて給与を支払っているので、外部収入は全額法人に入れてもらう。
⑤~⑥は稽古場があるので、それを活用した事業収入だ。
③~④は、劇団員8名が各自の領域で年間平均60万円は稼いでほしい。
主宰は外部への執筆や演出、戯曲の上演料などで稼ぐ。
俳優は客演やマスコミ出演で稼ぐ。
制作者は公演の閑散期に、他団体の制作業務を受託して稼ぐ。
(俳優は個人差が大きいと思うが、平均60万円は無理な設定ではないと思う。)

⑤は年間の1/3を外部にレンタル出来るのではないか。料金は1日5,000円で試算する。
⑥は月額1万円・定員10名で2クラス開講したい。公演などで通年は困難と思われるため、10か月で試算する。

③~⑥の年間収入は次のとおり。
(60万円×8名)+(5,000円×120日)+(1万円×10名×2クラス×10か月)=740万円

販管費の合計4,296万円から740万円を引くと3,556万円になり、これを①~②で稼ぐ必要がある。

このため、どのくらい公演を打てば3,556万円稼げるかをシミュレーションする。
それを逆算すれば、必要な動員数が割り出せる。
小劇場公演の1ステあたりのランニングコストは、劇団員の人件費も含めているので、演出料、出演料、制作人件費の7万円を引くと298,000円、約30万円になる。

キャパ180名で有料動員80%とすると、
1ステ144名になる。料金は平均3,800円とする。

中劇場公演
舞台美術の規模で大きく変わるが、ランニングコストは小劇場の2倍まではいかない。
1ステ55万円あれば足りるはずだ。
キャパ400名で有料動員80%とすると、1ステ320名になる。料金は平均4,800円とする。

以上の条件で、3,556万円の利益確保に必要なステージ数は次のとおり。

小劇場公演:3,556万円÷(3,800円×144名-30万円)=約144ステ
中劇場公演:3,556万円÷(4,800円×320名-55万円)=約36ステ


これはランニングコストだけの計算結果なので、イニシャルコスト分のステージ数を加える必要がある
しかし、小劇場公演はすでに144ステに達し、1週間9ステとして16週間劇場に詰めることになり、1か月以上のロングランを年3回成功させなければならない。非現実的なので小劇場公演での試算は中止する。

中劇場公演は36ステなので、年3回分のイニシャルコストを加える。
各種プラン料、製作費、運搬費など300万円×3回=900万円とすると、必要なステージ数は次のとおり。

中劇場公演:(3,556万円+900万円)÷(4,800円×320名-55万円)=約45ステ

年間45ステということは、2週間公演を年3回の計算だ。1公演の有料動員は320名×15ステ=4,800名を目指す。
ただし、2週間公演であっても年3回はハードルがかなり高いと思う。ここは料金を値上げして年2回公演にするのが現実的ではないだろうか。
年間45ステから30ステに減らすので、年2回分のイニシャルコスト600万円を加えて再計算すると、料金は次のとおり。

中劇場公演:(3,556万円+600万円)÷(6,000円×320名-55万円)=約30ステ

物販収入は、観客の1/3に700円の有料パンフを購入してもらうことを目指す。
原価率30%とすると利益は次のとおり。
(4,800名÷3×700円×0.7)×年2回=約157万円

《まとめ》

机上だけのシミュレーションだが、劇団員8名のカンパニーを法人化して、全員に30代前半の平均民間給与と福利厚生を実現するには、中劇場で有料動員4,800名の公演を年2回成功させる力が必要という結果になった。
料金は公演以外の収入を控えめにすると、どうしても6,000円になる。決して容易ではないが、絶対に不可能とか、途方もない数字というわけではないと思う。

損益計算は下記のとおりである。
売上高            6,724万円
 公演収入          5,760万円(6,000円×320名×30ステ)
 物販収入           224万円(700円×1,600部×2回)
 外部活動収入・戯曲の上演料  480万円
 稽古場賃貸収入        60万円
 講座・ワークショップ収入   200万円
-----------------------------------------------------------
売上原価           2,317万円
 公演費用          2,250万円(55万円×30ステ+600万円)
 物販費用           67万円(700円×1,600部×2回×0.3)
-----------------------------------------------------------
売上総利益          4,407万円
販売費及び一般管理費     4,296万円
営業利益            111万円

年2回の公演と週2クラスの講座・ワークショップだけでは、俳優がなにもしない時間が多い。
どれだけ外部活動をマネジメント出来るか、俳優による収益事業を生み出せるかがポイントになるだろう。
コストがほとんどかからない稽古場でのアトリエ公演も企画したい(興行場法を満たさない場合は月4回まで)。
助成金が獲得出来れば、チケット料金の値下げも可能になる。
マララ・ユサフザイ
スピーチ全文
「なぜ戦車をつくることは簡単で、学校を建てることは難しいのか」





慈悲あまねく慈愛深きアラーの御名において。

国王、王妃両陛下、皇太子、皇太子妃両殿下並びにノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、親愛なる姉妹兄弟のみなさん。今日は私にとって、素晴らしく幸せな日です。ノーベル委員会がこの貴い賞に私を選んでくださり、身に余る光栄です。

みなさんの絶え間ない支援と愛に感謝します。今も世界中から届く手紙やカードに、お礼申し上げます。みなさんの親切や励ましの言葉に元気づけられ、刺激を受けています。

両親の無条件の愛に感謝します。父は、私の翼を切り取らず、羽ばたかせてくれました。母は、がまん強く、いつも真実だけを語ろうという気にさせてくれます。これこそ、私たちが強く信じている、イスラムの真のメッセージです。

そして、私に、自分を信じ、勇敢に立ち向かうよう鼓舞してくれた、すべてのすばらしい指導者の方々に、感謝しています。

この賞をいただく最初のパシュトゥン人、最初のパキスタン人、そして最年少であることを、とても誇りに思います。また、まだ弟たちとけんかするようなノーベル平和賞の受賞者も、私が初めてだと確信しています。世界中が平和になってほしいと思っていますが、私と弟たちにとっては、まだ先のことです。

また、長年、私が生きてきた時間の2倍もの時間を、子供の権利を擁護してきたカイラシュ・サティヤルティさんとともに、この賞を受賞できることを光栄に思います。私たち、インド人とパキスタン人がともに活動し、ともに子供の権利という目標を達成することができることを誇りに思います。

親愛なる兄弟姉妹のみなさん、私は、パシュトゥン人のジャンヌ・ダルクともいわれる「マイワンドのマラライ」にちなんで名付けられました。「マララ」という言葉は「悲しみにうちひしがれた」とか「悲しい」という意味ですが、それに「幸福」の意味を加えようと、祖父はいつも私を、「マララ、世界で最も幸せな少女」と呼んでくれます。今日、この大切な目的のために、私たちが共に闘っていることを、とても幸せに思います。

この賞は、私だけのものではありません。教育を望みながら忘れ去られたままの子供たちのものです。平和を望みながら、おびえる子供たちのものです。変化を求めながら、声を上げられない子供たちへの賞なのです。

今、私は彼らの権利のために、そして彼らの声を届けるために、ここに立っています。今は、彼らを哀れんでいるときではありません。教育の機会を奪われた子供たちを見るのを、これで最後にするために、行動を起こすべきときなのです。

私は、人々が私のことを、いろんなふうに呼ぶことに気づきました。

ある人は、タリバーンに撃たれた少女と。

またある人は、自分の権利のために闘う少女と。

そして今は、「ノーベル賞受賞者」とも呼ばれます。

弟たちからは「うるさくて、偉そうなお姉ちゃん」と呼ばれているのですが…。

私が知る限り、私はただ、全ての子供たちが質の高い教育を受けることができることや、女性が平等な権利を持てること、そして世界の隅々まで平和であることを願う、熱心で頑固な人間でしかありません。

教育は人生の恵みの一つであり、生きる上で欠かせないものです。このことを私は、17年間の人生で経験しました。(パキスタン北部の)スワート渓谷にある故郷では、私はいつも、学校に通って新たなことを学ぶことを愛していました。何か特別なことがあると、私は友達と一緒に(植物染料の)ヘナで手を装飾したのを覚えています。花や模様を描くかわりに、私たちは数式や方程式を書いたものでした。

私たちは教育を渇望していました。なぜならば、私たちの未来はまさに教室の中にあったのですから。ともに座り、学び、読みました。格好良くて清楚な制服が大好きでしたし、大きな夢を抱きながら教室に座っていました。両親に誇らしく思ってもらいたかったし、優れた成績をあげたり何かを成し遂げるといった、一部の人からは男子にしかできないと思われていることを、女子でもできるのだと証明したかったのです。

ですが、こうした日々は続きませんでした。観光と美の地であるスワートが突如として、テロリズムの地と化したのです。400以上の学校が破壊され、女性たちはむちで打たれました。人々が殺されました。そして私たちのすてきな夢は、悪夢へと変わったのです。

教育は「権利」から「犯罪」になりました。女の子たちは学校に行くのをやめさせられました。しかし、私をとりまく世界が突如として変わったとき、私が優先すべきことも変わったのです。

私には二つの選択肢がありました。一つは黙って殺されるのを待つこと。二つ目は声を上げ、そして殺されることです。私は後者を選びました。声を上げようと決めたのです。

テロリストたちがいう正義を、ただ傍観することはできませんでした。すべての権利を認めず、無慈悲に人を殺し、イスラムを悪用するものだったからです。私たちは声を上げ、そして彼らに言おうと決めたのです。「コーランでアラーが『一人の人間を殺すことは、全人類を殺すのと同じである』とおっしゃっていることを学ばなかったのですか。ムハマドは自分を傷つけるな(自殺をするな)、他人もだと言っています」。そして、こうも言いました「コーランの中で最初に出てくる“イクラ”という言葉を知らないのですか」と。これは、「読め」という意味です。

2012年、テロリストは私たちを止めようとし、バスの中で私と今ここにいる友人を襲いました。しかし、彼らの考えや銃弾が勝利することはありませんでした。私たちは生き延びたのです。そしてその日から、私たちの声はさらに大きくなっていったのです。

私が自分の身に起こったこと話すのは、珍しい話だからではありません。どこにでもある話だからです。多くの少女に起こっている話なのです。

今日、私は彼女たちの話もします。私はオスロに何人かの「姉妹」を招きました。彼女らはパキスタンやナイジェリア、シリア出身で、この話を共有しています。私の勇敢な姉妹であるシャジアとカイナート・リアズは、あの日スワートで私と一緒に撃たれ、彼女らも悲惨なトラウマを経験しました。ひどい暴力と虐待を受けたパキスタン出身のカイナート・スームロは、兄を殺されましたが、屈しませんでした。

マララ基金の活動を通じて出会った少女たちも一緒にいます。彼女たちも今では、姉妹のようです。16歳の勇気あるメゾンはシリア出身で、今はヨルダンの難民キャンプで暮らし、テントからテントへと回って少年少女に勉強を教えています。そして、アミナの出身地であるナイジェリア北部では、少女たちが学校に行きたいと望んだというだけで、ボコ・ハラムがつきまとい、脅し、そして誘拐しているのです。

私は、たった身長5フィート2インチ(157.5センチ)の、単なる一人の女の子、一人の人間に見えるかもしれません。ハイヒールはいて5フィートというのでもよければ、ということなんですけれど…。 しかし、私の意見は、私一人の声というわけではなく、大勢の人の代弁者なのです。

私はマララです。そして、シャジアでもあります。

私はカイナート。

私はカイナート・スームロ。

私はメゾン。

私はアミナ。

私は、学校に行けない6600万人の女の子なのです。

今日、私は自分の声をあげているわけではなく、6600万人の女の子の声を代弁しているのです。

なぜ女子は学校にいくのかを、なぜ教育は特に女子にとって大切なのかを、人々が聞いてきます。しかし私は、なぜ彼女たちでは駄目だとされるのかという質問のほうが、より重要だと思います。なぜ彼女たちが学校に行ってはいけないのでしょうか。

今日、世界の半分では急速な進歩や発展がみられます。しかし、未だに何百万もの人々が戦争や、貧困、不正、という昔ながらの問題に依然として苦んでいる国もあります。

紛争も見られます。何千という無実の人々が命を奪われています。子供たちが孤児になっています。

ガザやシリア、イラクでは、多くの家族が難民となっています。アフガニスタンでは、自爆テロや爆弾で、罪のない人々が殺されています。

アフリカの多くの子供たちは、貧しさのために教育に触れることができません。ナイジェリア北部には、今も学校に行く自由がない女の子たちがいます。

カイラシュ・サティヤルティさんが言われるように、インドやパキスタンなどの国の多くの子供たちが、社会的なタブーから教育の権利を奪われており、または、幼くして結婚させられたり、児童労働にかり出されたりしています。

私と同じ年で、とても仲がいい級友の一人は、いつも勇敢で自信に満ちた女の子で、医者になることを夢見ていました。しかし、夢は夢のままなのです。彼女は12歳で無理やり結婚させられ、息子を産みました。たった14歳のときです。彼女なら、とてもいいお医者さんになれたと思います。

ですが、なれませんでした。なぜなら、女の子だったからです。

彼女の話こそ、私がノーベル賞の賞金をマララ基金に捧げる理由です。マララ基金は、女の子たちがどんな場所にいても質の高い教育を受けられられるようそして、声をあげるのを助けるものです。基金の最初の使い道は、私の心が残るパキスタンで、特に故郷のスワートとシャングラに、学校を建てるために使われます。

私の村には、今も女子のための中学校がありません。私の願いであり、義務であり、挑戦、それは、私の友達や姉妹たちが教育を受けることができ、そして夢を実現する機会を手に入れることができるようにすることなのです。

これは私にとっては出発点であり、立ち止まる場所ではありません。全ての子供たちが学校にいるのを見届けるまで、私は闘い続けます。

親愛なる兄弟、姉妹のみなさん。マーチン・ルーサー・キングやネルソン・マンデラ、マザー・テレサ、アウン・サン・スーチーのような、変革をもたらした偉大な人たちも、かつてこの舞台に立ちました。カイラシュ・サティヤルティさんと私のこれまでの歩みと、そしてこれからの旅もまた、変化を、それも持続的な変化をもたらすものであればと願っています。

私の大きな希望は、(子供たちの)教育のために闘わなければならないのは、これが最後になってほしい、ということです。この問題をきっぱり解決しましょう。私たちはすでに、正しい方向にいくつものステップを踏んできています。今こそ躍進するときです。

もはや指導者たちに、教育がいかに大切なのかを説くときではないのです。彼らは既にそのことを知っており、自分の子供を良い学校にいれています。今は行動を起こすときなのです。指導者たちにはぜひ、団結して、最優先事項に教育を掲げてほしいと思います。

15年前、世界の指導者たちは地球規模の目標「ミレニアム開発目標(MDGs)」を決めました。その後、いくらかは進展しています。学校に通えない子供の数は半分に減りました。とはいえ、世界が重点的に取り組んでいるのは初等教育(の拡充)ばかりですし、成果が全員に行き届いたわけではありません。

来年、2015年には、世界の指導者たちが国連に集い、次の一連の目標である「持続可能な開発目標」を策定します。これは、何世代にもわたる世界の目標になるでしょう。

世界は、基本教育だけで満足していいわけではありません。世界の指導者たちは、発展途上国の子供たちが初等教育だけで十分だと思わないでください。自分たちの子供には、数学や科学、物理などをやらせていますよね。指導者たちは、全ての子供に対し、無料で、質の高い初等・中等教育を約束できるように、この機会を逃してはなりません。

非現実的だとか、費用がかかりすぎるとか、難しすぎると言う人もいるでしょう。不可能だとさえいう人もいるかもしれません。しかし、今こそ世界はより大きく(このことを)考えるときなのです。

親愛なる兄弟姉妹のみなさん。いわゆる大人の世界であれば理解されているのかもしれませんが、私たち子供にはわかりません。なぜ「強い」といわれる国々は、戦争を生み出す力がとてもあるのに、平和をもたらすことにかけては弱いのでしょうか。なぜ、銃を与えることはとても簡単なのに、本を与えることはとても難しいのでしょうか。なぜ戦車をつくることはとても簡単で、学校を建てることはとても難しいのでしょうか。

現代に暮らす中で、私たちはみな、不可能なことはないと信じています。45年前に人類は月に到達し、おそらく火星にもまもなく降り立つでしょう。それならば、この21世紀には、全ての子供たちに質の高い教育を与えられなければなりません。

親愛なる姉妹兄弟のみなさん、私たちは動くべきです。待っていてはいけない。動くべきなんです。政治家や世界の指導者だけでなく、私たち全ての人が、貢献しなくてはなりません。私も、あなたたちも、私たちも。それが私たちの務めなのです。

みなさん、これで終わりにしようと決めた最初の世代になりましょう。

誰もいない教室も、失われた子供時代も、無駄にされた可能性も。

男の子や女の子が子供時代を工場で過ごすのも、もうこれで終わりにしましょう。

女の子が幼いうちに強制的に結婚させられることも、戦争で子供の命が失われることも、子供が学校に通えないことも、これで終わりにしましょう。

私たちで終わらせましょう。この「終わり」を始めましょう。
今、ここから、ともに「終わり」を始めましょう。

ありがとうございました。
【夢を追う人、夢を諦める人、夢なき人、夢見る人】

(※興味深いコラムを見つけたのでシェアしますね




世の中、夢を追いかけて一途にそれを続けているというのはけっこうもてはやされますよね。
例えば、テレビでも、仕事だったりスポーツだったり音楽だったり、今はその分野でトップランナーとなっている人の生涯を取り上げて、
芽が出なかった時期があったけれど、ずっと黙々と諦めずに頑張ってきたから、今の成功がある
――素晴らしい――
そんな感じの流れの特集番組とか多いじゃないですか。

あるいは学校でも、物心付いた頃には将来の夢を書くイベントがしばしば起こります。
これも暗に、この夢に向かって頑張ることを推奨しているきらいがあります。

いえ、夢を追うことは確かに素晴らしいことだと思います。
それはそうだと思うんです。

ただ、私が問題に思うのは、夢を追うことが過剰に美化されると、夢を諦めることが「敗北」として認知されてしまいかねないことなんです。

《夢を諦めることは敗北か》

先日、私のブログ友達のICHIROさんの本「僕が18年勤めた会社を辞めた時、後悔した12のこと」を拝読しました。
本の中でICHIROさんが、たびたび自分の夢だったり信念だったりをなかなか捨てきれずに会社の組織人として徹しきれなかったことを悔やんでらっしゃったのが印象に残っています。
夢を持っている人にとって、夢を諦めるのは意識しないととても難しいことなのだと感じさせられました。

夢を諦めるのが難しい原因の一つが、
先ほど言ったように、夢を追うことが過剰に美化されることで、夢を諦めることが敗北扱いになってしまうことにあると私は考えます。
上手くいかないからと投げ出したり、他にやりたいことができたからと自分の力の注ぐことを途中で変更すると、「忍耐の無い奴」「信念の弱い奴」「負け犬」という烙印を他人に押されるか、他人に押されなくても勝手に自分で自分に押してしまったりします。
そんな「敗北」はやっぱりみんな嫌なので、だから夢を諦めることは難しいのです。

《夢ばかり見ずに現実を見ろ》

世の中で夢を追うことは美化されていると書きましたが、
これを聞いてモヤモヤしている方もいるかもしれません。
だって、世の中には「夢ばかり見ずに現実を見ろ」的な空気も時折発生しているじゃないかって。

何となく漫画家になりたかったけど投稿作品がどうにもこうにも鳴かず飛ばずでデビューできそうな気配も無いような時、親御さんから「ちゃんと就職しなさい」というようなニュアンスで言われる感じですね。

これは言葉上は確かに「夢を見るな」という「夢を追うこと」の否定形になっているようですが、
よくよく考えると実は構造としては違います


「理想と現実」と言うように、理想と現実は一対の対義語となっていますよね。
ですから、
「現実を見ろ」ということは「ここは理想ではないことを認めろ」ということです。

そして、みなさんもご存知の通り、
「理想」の方には「理想的」と言うように「望ましい」「その方が良い」というポジティブ意味が込められていて、一方の現実は「現実は厳しい」のようなネガティブな意味が込められています。

つまり、
この場合の「夢を追うことの否定」も「現実」と対義になる「夢を追うこと」=「理想」とする構造なので、
「(できることならば)夢を追えるような(理想的な)状況の方が良い」ことは暗に認めているのです。

これは、
「夢を追うことは素晴らしいこと」という美化方程式を保ったまま、「ここはそんな美しい理想郷ではない」「敗北を認めろ」と「仕方ないでしょ」という意味での「夢の諦め」の推奨です。

要は、体の良い降伏勧告のようなもので、
「夢ばかり見ずに現実を見ろ」のような言説があるからといって、
「夢を追うことが美化されてない」ことにはならないのです。

《夢なき人と夢見る人の誕生》

さて、
このように、夢を追うことを美化し、夢を諦めることは敗北として忌避されたまま、
「夢ばかり追わずに現実を見ろ」という言説が回ると何が起きるでしょうか。

それは、「夢を持たない人」と「夢を見る人」が誕生するのです。

一旦夢を持って、諦めると、敗北の痛みを伴います。
この痛みを受けずに済む方法の一つは、最初から夢を持たないことです。


夢を追うことが理想のはずなので、夢を持たないことは一見マズイように見えますが、
ここで「夢ばかり追わずに現実を見ろ」という免罪符が威力を発揮します。

夢を持っていないだけなのに、
夢ばかり追わずに現実的に生きている言わば「大人」であるとして、
自己擁護することができるのです。

あたかも
「一旦夢を追いかけたけれど自分はそんな子どものような段階は卒業して大人になったんだ」
と、言うわけです。

実際には卒業したわけでもなんでもなく、スルーしただけなのですが。

もう一つの方法が、夢を持つだけで行動に移さないことです。
夢を持っているけれど、追いかけないわけですね。
口では「こういうことをしたいんだ」「将来こうなるんだ」と言っておきながら、
実は具体的な活動は特にしていません。

しかし、
一応「夢を語ること」で「夢を追いかけているような気分」に自分でなったり
他人にそう思わせたりできるので、
「夢を追うことを捨てていない自分」として自己擁護することができるのです。

実際には、「夢を諦めていない」のではなく「夢を追いかけていない」だけなのですが。

《夢を諦めることは敗北じゃない》

このように、夢を追うことを過剰に美化すると、
そこから外れることが「敗北」のように感じられて、かえって最初から夢を追わなくなってしまいます。

これってなんか変な話ですよね。

だから――というわけでもないのですが、そもそも私は夢を諦めることは敗北ではないと思っています。
上手くいかないからと投げ出したり、他にやりたいことができたからと夢を途中で変更するのだって、何の問題も無いと思います。
それは敗北ではなく、ただ変化しただけのことです。

夢を変えちゃいけない、止めちゃいけないなんて、誰も決めていません。
決めちゃいけません。決まっていません。

それに、それが巡り巡って良い結果をもたらすことだって少なくありません。

先ほど紹介したICHIROさんも、
百貨店勤務の経験を通して商才を磨かれた結果、独立起業したショップは順調のようですし、小説家になりたいという夢を通して磨かれた文章力で、現在押しも押されぬ有名ブロガーさんとなった上、著書まで出版されています。

一つの夢に向かってコツコツ進むだけが人生ではないんです。

また、先ほどは少し否定的に書きましたが、夢を持たないことだって、アリだと思います。
やりたいことが無いけれど、とりあえず目の前に来たことに真剣に取り組んだ結果、大成したり、その取り組みを通じて「夢」「やりたいこと」が見つかってきたりもします。
ただ、
私がいけないと思うのは「夢を持たないこと」で自分を「現実を見ている大人」と自己肯定するごまかしです。
それをしてしまうと、いつまでも「夢を持てない人」になってしまいます。
大人が夢を追いかけちゃいけないわけでもないのですから。
 
まとめます。

夢を追いかけることを美化しすぎると、夢を諦めることが「敗北」扱いになって、心のダメージが大きくなりかねません。
そうすると、結局夢を追ってない「夢なき人」「夢見る人」の増殖を招きます。
夢を諦めることや夢を変えることだって、人生の形として、もっと肯定的に見られるようになったら良いなと感じます。
【どうしてプロに無償で仕事依頼しちゃダメなのか】
”原価のある、時間”

という記事をご紹介いただきまして、
実際に読ませていただいたところ「うんうん」と納得しました
目に見えない商品を扱う技術、そしてその原価である時間(投資、労力)。
まさに業界全体を下げている大きな原因の1つだと感じたので
みなさんにも共有させていただきますね!




ここ数日、"手に職系"のプロに"無償"で仕事を依頼することが続けて話題になってます。


大阪市天王寺区役所が「デザインの力で、行政を変える!!」をキーワードに広報デザイナーを募集するも、
区ホームページ・広報紙等にて名前を紹介する代わりに"無償で"制作することが条件だったため、撤回の署名活動が行われている。


好きな人が翻訳を断ってきました。
プロの翻訳家に幾度も無料で翻訳をお願いし、「ご依頼は翻訳会社を経由して下さい」と言われるも、知り合いにお金を要求するのはマナー違反と主張する方の相談が炎上。


美容師に「ちょっと軽く切ってくれない?」
ミュージシャンに「新しいCDちょうだいよー」
イラストレーターに「HPのイラスト描いて」……

「友達だから」「ちゃちゃっとテキトーでいいから」などを理由に無償で頼む人はとても多いですが、
基本的にはダメです

親しい間柄で、たまたまタイミングが合った時や結婚式など特別な時にはむしろ喜んでやってくれることも多いですが、その他の場合には承諾してくれたとしても内心あまり良くは思っていないと考えた方がいいです。
「友達だからこそ断りにくい」「有償にしてとは言い出しにくい」と、相手を悩ませています。



プロに無償で仕事を頼む人は、
"手に職系"の人達が"技術"をお金に変えて生活しているということを理解できていない
のだと思います。
別の言い方をするなら『金=モノ』としか思えていない。


"技術"を無理やりモノに置き換えて例えると、

八百屋さんに「このリンゴ、タダでちょうだい」とか、
「今日の買い物分、全部タダにして」と言っているようなものです。
場合によっては、「数日分の買い物をタダにして」位のこともあるかも。


文頭の天王寺区役所の場合だと、
さらに「ここの店はタダでくれるよー!って宣伝してあげるね」という感じでしょうか。


これだけでもちょっと異常なのが想像つくでしょうか

"技術料"というのは目に見えないので、"気持ち"に換算されがちなんでしょう。
でも、実際に換算する時に「近い」のは"時間"です。

言うまでもなく、世の中で一番高いのは人件費です。
多くの人が"時間"を売って生活しています。
そんな中、友達に「時間をタダにしろ」というのがどれほどおかしなことかわかるかと思います。

さらに、"手に職系"技術者は一般的な雇用と異なり、時間+αによってその職業が成り立っています。
この+αこそが、その人ならではの"技術"。


同じ職種内には、様々な"技術"を持った人がたくさんいるのだから、
"技術"はその業界内で仕事を得るための大事なもの
買い手がクオリティ、オリジナリティ、値段などで比較検討するのはモノも"技術"も同じです。

例えば牛丼屋をオープンさせようとする時、吉野家や松屋の価格を参考に考えますよね?
もし無料、あるいは1杯100円で売ったとしたら、牛丼屋チェーン全体に影響が及び、低価格争いになって自分の首も絞めることになる。
赤字にしかならない価格でしか他社と争えないとなったら、業界全体で品質の低下も起こる
儲け度外視で質にこだわって頑張っても、副職のない本職の方なら先ず生活から成り立たなくなってしまいます。
その業界で本職のプロとしてやって行きたいなら、なおさら価格には気をつけねばならない。

"技術"の市場原理も同じです。


プロの"技術"をタダにさせるというのは、その人がその業界で生きていくのに大事なものを軽んじる行為なだけでなく、業界全体にまで影響を及ぼしかねないことなんです。
無償や低価格でも引き受ける人がいることが広まったら、業界内での買い叩きも起こりかねない。
だから、あくまで「親しい間柄」で「特別な場合」に「好意」でする場合を除いて、プロの技術者は無償で仕事することを好まないのです。

またプロだからって、否。プロだからこそ、「ちゃちゃっとテキトーに」なんてできないんです。
プロとしてのプライドなどもありますが、いい加減なものが自分の仕事として広まるのは、その"技術"が売り物だけに避けたいのです。
だから好意の無償仕事であっても、殆どの方が有償の仕事と変わらない仕事をしていると思います


いやいや、だって八百屋さんは仕入れて来てるじゃん!
モノには原価(仕入れ値)があるんだよ。
"技術"はタダでしょ。ちょっとやってくれてもいいじゃん!!

という方もいるかもしれませんが、
"技術"を習得し、
業界で生き続けるための修練には膨大な時間とお金がかかっています。

制作実費や光熱費などの経費以外にも、技術を発揮させる道具(プロ仕様は高額でケアも大変なものが多い)や、それを支える体力、勉強なんかも原価と言えると思います。

つまり、
プロの技術は"原価のある、時間"でもある。


「親しい間柄」の人が、どの「特別な場合」に、
「好意」で、"原価のある、時間"を遣ってくれるか否かはケースバイケース。

ま、ここの測り方が一番むずかしいと言えば難しいんですけどね(笑
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EIJI LEON LEE

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