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ロサンゼルスで活動する日本人俳優Yukiのインタビュー記事
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(I:インタビュアー/Y: Yuki)

I:俳優になりたいと思われた経緯をお教えください。

Y:7歳の頃から11年間、「LABO」という子供英語劇の団体に所属し、英語と日本語で舞台劇をやっていました。この「LABO」という団体は全国に「劇団」…というか、「グループ」を沢山持っているんですが、7歳の時、僕は宮崎のとあるグループに見学に行ったんです。するとそこで、「だるまちゃんとかみなりちゃん」という劇のオーディションを催していました。僕は当時から目立ちたがり屋だったものですから、どうしても出演したくなりまして、主役(だるまちゃん)のセリフを完全に覚え、オーディションに参加しました。すると…、その役を取ってしまったんです。…でも、元々グループにいた子達からすると、こんなに面白くない話はない。いきなりやって来た新参者が主役を持って行ったワケですから。結果、次の「プロメテウスの火」という劇からは、ものの見事に外されまして、それを見た母が僕のために自分で「グループ」を立ち上げたんです。僕はそこで、11年間舞台を演じていました。
高校に進学して進路を決める段になり、自分に何ができるんだろう、自分は何がしたいんだろう、と冷静に見つめなおした時、自分にとって一番しっくり来たのが「俳優業」でした。東京の映画学校に進学したんですが、とある先生の「日本よりも、アメリカの方があっているんじゃないか?」という助言を聞き、自分が薄々感じていた思いが確信へと変わり、2000年7月に、映画学校の2学期の学費を元手に渡米しました。…まあその元手は、すぐに無くなってしまいましたが。

I:映画学校の先生は、どうして「日本よりも、アメリカの方があっているんじゃないか?」と思われたのでしょうか?

Y:僕の演技に対する姿勢が、かなり異質だったからだと思います。僕は「LABO」で、自分で演出し、自分で演ずる、というスタイルで舞台を作り上げていました。ですから映画学校でも、「こうしてくれ」と監督から指示があっても、それをそのまま聞くのではなくて、逆に「こういうのはどうでしょうか?」と、自分から意見を言っていたのです。しかし、こういう姿勢は日本の業界では一般的ではないので、アメリカの方がそういった姿勢を受け入れてくれるのでは、という意味でおっしゃって下さったのだと思います。もしくは単に「面倒臭い奴だなあ」と思っていただけかもしれません。どちらにしても、僕自身「アメリカの方が自分に合っている」という風に感じていた所があったのは事実です。それに加え、「これまで自分が英語で劇をしてきたのは、ハリウッドを目指すためだったのではないか」、「ハリウッドではオーディションがあるので、実力さえあれば誰でも俳優になれるのではないか」、「ハリウッドで映画に出れば、大金が稼げるのではないか」、という3つの妄想が加わり、一気に気持ちが盛り上がってしまい、渡米へと相成りました。…3つの妄想のうち、少なくとも後の2つは大きな勘違いだったわけですが、それに気付いたのは、もっとずっと後でした。

I:渡米されてからの行動は?プランとかあったのですか?

Y:バージニア州バージニア市は、僕の故郷である宮崎市と姉妹都市関係を結んでいるので、それを上手く利用し、とある演技学校に入れて貰おうと企んでいました。…しかし現地に着いて知ったのは、その演技学校が高校であるという新事実。僕は高校は卒業していましたので、どう頑張っても入学できない事が分かったのです。ええ、もちろん下調べなどしていませんでした。行き当たりばったりです。
演技学校に入学できないのならば、バージニア州に留まる意味はありません。バージニア州はちょうどアメリカ東海岸でしたので、「東海岸で演技学校と言えば、ブロードウェイのあるニューヨークだろう」と思い立ち、行き当たりばったりでニューヨークへと移動しました。
そうして流れ着いたニューヨークのユースホステルに宿泊中、現金を盗まれ、ニューヨーク一番の繁華街であるタイムズスクエアで歌って生活費を稼ぐという、ストリートパフォーマンス生活を9ヶ月間続けました。

I:現金を盗まれてしまったのですか?その後どうされました?

Y:11年前は、まだインターネットが今ほど発達していませんでしたから、俳優はオーディション情報を俳優新聞の募集欄で探していました。ある時そこで「日本人の悪役」を探している、というアクション映画の募集を見つけ、応募してみたところオーディションに呼ばれました。会場はニューヨークから車で3時間掛かるペンシルバニア州の大学だったのですが、中華街からバスに3時間揺られてオーディション参加したところ、なんと準主役でキャストされたのです。それから2ヶ月間、ペンシルバニア州で映画の撮影に参加しました。人生初の映画撮影でした。その時の監督が「映画俳優になりたいのであれば、ニューヨークではなくてハリウッドだよ」と僕に助言をくれまして、その助言をきいて、ニューヨークからハリウッドへと移動しました。

I:ハリウッドに移られてからは、人間関係やお仕事の方、どのようにエスタブリッシュされたのですか? 最初のハリウッドでのお仕事の経験もお聞かせください。

Y:ハリウッドに移動してからというもの、学生映画や小規模の独立映画などに出演する傍ら、舞台にも積極的に出演していました。ある時、僕はハリウッドにあるとある小劇場で、ベトナム人将校の役を演じていました。その時の共演者の知り合いが、映画「ラスト・サムライ」のキャスティングを手伝っていたので、僕に「ラスト・サムライに応募してみないか」と持ちかけたのです。僕は特に何も考えず、彼にエントリー用のヘッドショット(顔写真)と履歴書を手渡しました。…すると、オーディションに呼ばれ、なんとセリフ有りの役でキャストされてしまったのです。
大作映画に出演するのはもちろん始めての経験でしたから右も左も分からず、トム・クルーズさんに「そこに立っていたら、カメラに映らないよ…?実は僕も、映画に初めて出演した時、同じ事を言われたんだ(笑)」と助言を受けました。
「ラスト・サムライ」に出演後、ニューヨーク時代にキャストされた「とあるアクション映画」がリリースされ、批評家にボロクソに酷評されました。「この映画は本当に酷い。最低の映画だ。この最低の映画の中で、誰よりも一番酷いのがYukiだ!」と名指しで批判され、それまでの奢り高ぶった自信が崩壊し、6ヶ月間にも及ぶスランプを経験しました。自分は演技ができない。自分がたった一つだけ出来ると思っていた演技の才能も、自分には無かった。自分は何も出来ない、価値の無い存在なんだ、と自暴自棄になり、数ヶ月間引き篭もりました。

I:それは手厳しい.辛いですね.そのように深く落ち込まれてしまってどうやって立ち直れたのですか?

Y:そこから立ち直れたのは、価値の無い自分を認めたからです。自分自身の無力さ、未熟さを素直に認め、謙虚な気持ちで再出発を切れた事が、一番大きな要因だったのではないかと思っています。 時間は掛かりましたが、未熟な自分を認めて、これから少しずつ成長していけばいいのではないか、とポジティブに捉えれるようになり、英語や演技の勉強に励むようになりました。

I:素晴らしい転換ですね.それからどうなされましたか?

Y:その後も、舞台、ミュージカル、学生映画、短編映画、独立映画などに出演していました。ある時「硫黄島からの手紙」のオーディションに呼ばれ、クリント・イーストウッド監督にキャストされ、一ヶ月間、撮影に参加しました。

I:クリント・イーストウッド監督から学ばれたものは?

Y:俳優と監督は全く別の職業なので、直接学ぶというのは難しいのですが、クリント・イーストウッド監督の撮影方法には驚愕しました。俳優を完全に信頼し、1テイク、もしくは0テイクで撮影していくのです。…0テイクというのは、カメラの動きを決める「カメラリハーサル」でフィルムを回し、ファーストテイクに行く前に撮影が終わってしまう事です。という事は、もしも俳優が失敗すると、それがそのまま最終テイクとなり、一生残ってしまう…という事です。それだけプレッシャーは掛かりますが、やりがいのある現場でした。

I:役はどのようにして準備されたのですか?

Y:硫黄島の役作りは今までで一番キツかったです。自分の祖父の代の実在した方を演ずるわけですから、いい加減な役作りではいけないと思い、洞窟内の飢餓状態を再現するため、5週間の断食を敢行しました。…とは言っても、完全に食べなかったわけではないので、「断食」ではないのかもしれません。一日にセロリの茎を3本。途中からは、それに豆腐を1丁。この生活を5週間続けました。不思議な事に、最初の一週間を過ぎたあたりから空腹感が消え、妙な高揚感を感じるようになりました。「自分は食べなくても大丈夫じゃないか」と感じるようになったのです。でも、フラッと意識が飛んだり、視界が見えなくなったり、胸に発疹が出たりと、身体が異常を訴えていました。
あとは、日本軍の軍規に精通している軍事コーディネーターがセットにいませんでしたから、陸軍の敬礼について定めた陸軍礼式令(りくぐんれいしきれい)を5枚くらいのプリントにまとめ、キャストの方々にお配りしました。

I:大変な思いをされたのですね。

Y:この映画は、自分にとって、とても大きな意義のある映画でした。というのも、僕はそれまでのハリウッドでの「日本兵」の描かれ方に大層な不満を抱いていたからです。硫黄島以前のハリウッドは、日本兵を一人の人間として見る事をせず、ストーリー上での「悪役」としての機能した持たされていない人間性の欠片も無い日本兵、もしくは悪の日本軍の中で良心の呵責に苛まれるたった一人の良心的日本兵、という、二通りの日本兵しか描いていませんでした。アメリカにおいて戦争映画を作る上で、日本兵は「悪」でなくてはいけなかったのです。

I:前にも日本兵を演ずることがあったのですか?

Y:僕はとある映画で、捕虜となった特攻隊員の役を演じていました。その監督は撮影中、僕にこういう風に言っていたのです。「僕は、日本兵が全て悪人だったとは思っていない。彼らは人間だった。その人間である日本兵を、頭に血が昇ったアメリカ人将校が殺す。その不条理こそ、僕が描きたい物なんだ。」素晴らしいじゃないですか。僕はこの考えに大いに賛同し、特攻隊員の役を演じ、日本語でこうセリフを言いました。
「私は捕虜となってまで、抵抗は一切しない!本国において、私は死んだも同然だ!」
ところが、完成品を見て、僕は度肝を抜かれました。英語字幕が捏造され、こんなセリフになっていたのです。
「この船はもうすぐ沈む。俺が海の底まで連れて行ってやろう!」
ええ、どう見ても悪人です。この短編映画は、実際の艦船の上で撮影されたので、退役軍人への配慮が働いた結果「日本兵はやはり、悪人でないといけない」という事になったと推察していますが、僕にはとてもショッキングな出来事でした。やはりハリウッドは日本兵を人間とは見てくれないんだ、と諦めかけていました。

I:クリント・イーストウッド監督は、そういった今までのハリウッドの監督とは違いましたか?

Y:「硫黄島からの手紙」でクリント・イーストウッド監督が成し遂げた功績は、本当に大きかったのです。初めてハリウッド映画で、日本兵の視点から、日本兵が人間として描かれたのです。「硫黄島」がハリウッドに与えたインパクトは、絶大なものでした。それまでの日本兵像が完全に崩壊してしまったのです。あの映画以降、日本兵を「硫黄島」以前の「ただの悪役」として描いたら、とても陳腐に見えるようになってしまったのです。僕は、ハリウッドの日本兵像を変えた歴史的な作品に関われて、本当に幸せだったと思っています。

I:では、日本兵ではなく、日本人というイメージはどのように受け止められているのでしょうか?

Y:ハリウッドの日本人感というものは、生もので、どんどん変わっていきます。「ラスト・サムライ」で、ハリウッドにおける日本人の存在感は一気に増しました。そして、「硫黄島」で、それまでのステレオタイプの日本兵像が崩壊しました。しかし、現代の日本人は、まだ感情豊かな人間としては描かれていませんでした。日本人は基本的に「仏頂面で、感情を表に出さない」と思われていたので、オーディションなどで求められる日本人像も、それに準じたものでした。
それを変えたのが、テレビドラマ「HEROES」です。あのドラマでマシ・オカさんが感情豊かな「ヒロ」の役を演じ、数千万人のアメリカ人がそれをテレビで観た事で、ハリウッドの日本人像は、また大きく変わったのです。HEROES以降、日本人の役は明るく、感情豊かになりました。マシ・オカさんは、「日本人がテレビシリーズのレギュラーになった」という事よりも、もっともっと大きな事を成し遂げていたのです。
まだまだ勘違いだらけの日本人像ですが、僕達が内部に入り込み、現場で可能な限り修正し、少しずつ人目に触れる日本人像を変えていく事で、いつかは日本人が見てもおかしくない日本人像があたり前になる日が来るのだと信じています。そしてそれこそが、僕達ハリウッド在住の日本人俳優の使命だと考えているのです。

I:本当にいつか変わるといいですね。ハリウッド在住の日本人俳優の方々の努力を応援します。Yukiさんはお好きな方と共演されていますね。

Y:僕は70年代のイギリスのコメディグループ、「モンティ・パイソンズ」が大好きで、中でもジョン・クリーズさんを尊敬しています。ですからジョン・クリーズさんと共演できて、彼の腹の据わった思い切りの良いコメディを間近で見れて、本当に勉強になりました。ジョンさんはとても優しい方で、「私のラストネームは『クリーズ』だけど、実は元々は『チーズ』だったんだ。父が戦争に行った時に『チーズ!チーズ!』って馬鹿にされて、それで『CHEESE(チーズ)』の『H』を『L』に変えてしまったんだよ。だから世界に2つと無い名前なんだ。」と自分の名前にまつわる話をしてくれました。

I:愉快なファミリーですね。ご家族は、Yukiさんの夢に対していかがでしょう?

Y:「ハリウッドで俳優になる」という僕の夢に対し、最初は半信半疑だったようですが、僕が本気と分かり、全力で応援してくれています。家族の支えが無ければ、ここまで来る事はできなかった事でしょう。

I:誇りに思い、喜ばれていることでしょう。宮崎、日本、ふるさととは?

Y:僕にとっての宮崎は、チキン南蛮王国です。大好きなんですチキン南蛮。太らないチキン南蛮があれば、毎日毎食食べたいですね。僕はどこまで行っても「日本人」です。それはこれからも一生変わらない事でしょう。一人の日本人として、胸を張ってハリウッドを生き抜きたいと思います。

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